2007.10.02 第31回「サッカークラブを作ろう(上)」

 「健康な人間は全員埼玉に行きました」というぐらい野戦病院と化したアルビレックス。そんな逆境中の逆境の中、2冠を狙う浦和レッズ相手に、敵地で試合終了直前まで粘りに粘ったが、すんでの所で勝ち点1を逃してしまった。一方、埼玉スタジアムから離れること327km。ほぼ同じ時間、同じく試合終了2,3分前に同点ゴールを叩き込まれたが、こちらは逆に勝ち点1を獲得し、3部リーグ昇格という栄冠を勝ち取ったチームがあった。これは、新潟県社会人リーグに所属するASジャミネイロ、4年間に及ぶ激闘の記録である(ここで、地上の星のミュージックスタート)。

 社会人リーグに加盟して戦いませんか? と、後輩に誘われたのはアルビレックスの昇格に沸く2003年の晩秋である。元々、僕の腰と返事は軽い。それまで、フットサルもどきを仲間内でダラダラ楽しんでいたが、アルビレックスの昇格を追っているうちに、自分たちもリーグ戦というものを、公式戦の真剣勝負という緊張感を味わいたくなった。ガチな1年を追っているうちに、体がガチを求めていた。
 やっちゃおう、やっちゃおう。そういうノリになるのに時間はかからなかった。選手は、ゴール裏にいるサッカー経験者を中心に声をかけ、さらに、こいつはサッカーが上手いという触れ込みの彼らの知人達も加わって、それなりの陣容が集まった。チーム名は、当時、ブラジルのクルゼイロからアルビレックスにアリスティザバルが入るんじゃないかという噂もあり、クルゼイロをもじって、僕がジャミネイロと名付けた。ブラジルスタイルでいこうな、と今思えば本当に呑気なことを言っていたものだ。さらに、FCジャミネイロだと平凡なので、ASジャミネイロとする。気が付くと、僕の横には、アフロスターを名乗る赤ら顔の酔っぱらいがいた。もう、ASはアフロスターの略でいいや。かくして、AS(アフロスター)・ジャミネイロ誕生。そのまま、アフロスターこと篠崎徹を、酔った勢いで監督に決定してしまったが、そもそも、それがつまずきの始まりであったことは、当時まだ誰も知らない。

 リーグの加盟審査が思いのほか厳格だったが(リーグ存続の前提として、その構成員として相応しいか調べるのは当然。レベルは違ってもJの審査と理念、手続きは一緒です)、社会人の4部だから、、まぁ、それなりに楽しめるだろう。そこそこ上手い奴揃ったし、うまくいけば、1年目から昇格狙えるんじゃないか、と楽観視していたのは否定できない。
 晴れて、リーグ加盟が承認されたジャミネイロが、新潟県社会人リーグ新潟地区4部Aにデビューしたのは2004年5月。今も忘れもしない、試合会場は「吉田町ふれあい広場」。大雨の中、ジャパンサッカーカレッジに、一方的に攻撃され、走り回され、倒され、泥だらけにされた。ファイナルスコアは5-0だが、実際それ以上の実力差があった。ジャミネイロの歴史は虐殺からスタートしたのである。

 強豪ジャパンサッカーカレッジ相手の開幕戦の苦戦は想定済みだったが、そこからは想定外の連続だった。どのチームも強い、上手い。僕が上手いと思っていた、エンジョイフットサル時代の足自慢の奴も、県リーグの世界に入ればまるで通用しなかった。連戦連敗。内容も悪いから、試合中はいつも、味方同士で怒声が飛び、雰囲気も悪かった。ブラジルスタイルを目指すという、当初の理想は、口に出すのも恥ずかしく、ゴール前でドン引きで守り、苦し紛れのクリアを繰り返し、ひたすら敵の波状攻撃を受けるだけのゲームが続いた。攻撃の形、戦術という話を持ち出すレベルですらなかった。
 一言で言えば、競技サッカーのレベルをなめていたのだろう。もっといえば、サッカーをなめていたかもしれない。初年度、JFAのピラミッドにある最底辺のリーグで、ジャミネイロは1勝1分8敗、わずか勝ち点4で終わる。唯一、試合観戦したゲームで、ビール片手にスタンドから呑気に試合を見ていただけであったが、唯一の勝利を体験することになった篠崎監督が、その実績を盾に留任を主張したが、あえなく却下され、シーズンオフに解任された(笑)。

 続く、2005年シーズン。初年度の反省をうけて、補強などのチーム整備と練習に入ったジャミネイロであるが、確かに、守備は整理され、接戦まで持ち込めるようにはなっていたが、劇的な変化が起きるほどサッカーは甘くはなかった。初年度のように崩壊はしなかったが、まだまだ勝てる臭いはせず、カウンターからの個人技でなんとか得点をするのが精一杯。自分たちのスタイルなんてものは、構築できていなかった。
 それでも、前年度に比べれば、いくらか勝ち点の上積みは出来た。確かに、チーム力は上がってきた。でも、3部昇格などまだまだ現実として考えられなかった。それは、まるでJ2二年目のシーズンを終えた、かつてのアルビレックスの姿であった。サッカークラブって、そう簡単なものじゃないんだ・・・・。しかし、2005シーズン秋から、翌2006シーズン開始の間にかけて、その後のジャミネイロに大きな変化を与える二つの出来事が起こったのである。それはなにか。残念ながら、ビッグスワンの誕生ではない(笑)

 また、ネタがないときに続編を書きます。

2007年10月2日 15時02分

PROFILE of 浅妻 信(あさつま まこと)
1968年生まれ。新潟市出身。新潟高校卒業後、関西で長い学生時代を過ごす。アルビレックスとの出会いは99年のJ2リーグ開幕戦から。以来、サッカーの魅力にとりつかれ、現在に至る。2002年、サポーターのみでゼロから作り上げたサポーターズCD「FEEEVER!!」をプロデュースして話題に。現在もラジオのコメンテーターだけでなく、自ら代表を務める新潟県社会人リーグ所属ASジャミネイロの現役選手としてフィールドに立つなど多方面で活躍中。