今自分は、ゴール裏という所にいるが、そもそも最初からそこにいた訳ではない。
観やすさと金銭的な理由で、バックスタンドを中心に観戦していた。
言い出すといろいろあるんだけど、それらも含めて簡単に言っちゃうと、サッカーそのものが観たいだけで、応援には興味が無かったという事だ。
今、年数でいえば、ゴール裏で過ごした時間と半々くらいか。
2001年、古巣大分での船越の大怪我。
2002年、長居。
2年連続で終盤に来て昇格を逃し、反町監督を強引に続投させ、2003年のこの年に昇格出来ないとなると、このチームの今後は急に暗いものになってしまう、そんな気がしていた。
満を持して挑んだシーズン、でも立ち上がりのホーム札幌戦で負けてしまった。
市陸では何試合ぶりの敗戦だったんだっけ?
とてもサッカーを楽しむなんて状況では無くなって来た自分は、何か出来ないかと考え始めていた。
単純に考えてゴール裏に行って声を出すって事だったんだけど、自分の中で”ゴール裏の応援=某団体”ってイメージがあって自分がいわゆる”応援屋”になってしまったり、ただ盛り上がりに行く人の中に入って行くというのは正直気がすすまなかった。
かといって当時はまだ、バックでもホームのコーナー寄りでしか声を出す人も少なかったし、やっぱり選手にとってはあのゴール裏から発せられる声が少しでも大きい方がいいんだろう、そう思った。
それからネット等でいろいろ調べ始めた。
”ニイガタスタイル”という言葉があちこちで出て来る。
ただ、それが具体的にどういったものなのか、今ひとつ理解出来ない。
正直ヌルいのがニイガタスタイルなのかと思った時期もあった。
今でもゴール裏の古参サポにたまに言う事があるが、あのサポーターが爆発的に増えたあの頃に、人を集める事はウマくやったけどその後で”自分達はこういうスタイルです”ってアピールがあまりにも少なかった。
まあ、それはそれとして。。。
当時浅妻信さんがやっていたHPで、あるコラムを見つけて読んだ。
タイトルは、”気合・釜本・猪木”
これだと思った。
それもあの札幌戦の後に書かれたものの様だった。
それを読んで、自分は吸い寄せられる様にゴール裏に向かった。
自分がスポーツを観て最初に感動して涙を流したのは、ロサンゼルスオリンピック、山下泰裕の足を引きずりながらの金メダル。
それを超えたのが長野オリンピック、原田4年越しのリベンジ、ジャンプ団体の金メダル。
そしてそれらが何だったんだと思える位感動したのは、2003年11月23日。
あそこにいたほとんどの人間が、ロスタイム、半べそかきながら歌った”アイシテルニイガタ”
自分達は、今から思えば、たかがJリーグ17位(当時はJ1は16チーム)になっただけで、あれだけ狂乱した。
でもあの時、新潟のおとぎ話の第二章がはじまったばかりだったはずじゃなかったのか?
ローソンの駒形さんは言った。
「私たちはこの新潟で生まれ、新潟で育ち、そしてこれからも新潟で生きていくんです」
えのきどいちろうさんは、2002年ビッグスワンにも押し寄せた、アイルランドサポーターを見てこう言った。
「俺、サポーターも男にならにゃいかんのだなあと思ったです。女性サポもいるから普遍性を持たせると、戦い抜いて、惚れ抜いて、大人の顔をしている様な状態。信念がシマシマ着ているたたずまい。
黄色人種が若く見えるとか、実際に若いとか、そういうことを差し引いても、俺達はまだ子供っぽく見えるかもしれない。少なくともあのおじさんよりは、まだ引き返せる所に立っている気がする」
あの頃の必死さをどこか失っているサポは結構多いんじゃないか?
それ以降にサポになった人だって、もっと知らなきゃいけない事って結構あるはず。
祈る様に叫んだ、あの”アイシテルニイガタ”。
あれを絶対J1の舞台でもやらなきゃいけないし、もっともっと上の舞台ででもやらなきゃいけないはずだ。
そしてそれらひとつひとつの思い出を、アルビレックス新潟というクラブの歴史に刻み込んでいかなければいけないはずだ。
そのためには、何故か最近すっかり聞かれなくなった”ニイガタスタイル”。
それをもう一度思い出して、俺達のホーム、ビッグスワンを、選手を勇気づける雰囲気で埋め尽くさなきゃ、出来るもんだって出来やしない。
他人を批判するだけでなく、今は一人一人が自分の姿勢を問い直す良い機会なのかもしれない。
あの時出来たのに、今出来ないはずは無いと信じている。
自分のコラムはこれで最終回です。感想のメールを頂いたり、スタジアムで直接感想を頂いたりもしました。
計9回のコラム、そういった方々はじめ、読んで頂いた全ての方に感謝します、本当にありがとうございました。
最後に、あくまでも他力本願な自分らしく、丸投げで〆にしようと思います。
hamaがはまいちと呼ばれていた頃の(なんだそれ)コラムです。
■気合・釜本・猪木 投稿者 はまいち(03/4/8)
僕等のホーム、新潟市陸上競技場で2年近く続いてきた無敗記録。
しかしついにそれも先週途切れてしまった。
市陸の試合でこれだけ長くの間、負け試合が無かったのはなぜだろうか?
1つには試合が少なかった事があるのかもしれない。
でももう1つ。
セイゴローだけしか来ない人々ではなく、市陸にも来る人達が作り上げる「ホームらしい」雰囲気にもその原因はあったのではないだろうか?
去年の第4クール、気合だけで引き分けに持ち込んだ大宮戦。
セルジオの弾丸シュートでウンコちゃん達をやっつけた川崎戦。
怒涛の試合展開で代表コンビを泣かしてやった大阪戦。
楽勝ムードの中、野澤が退場して1万人がヒーヒーいった湘南戦。
すべての試合が無敗市陸を作ってきた一歩一歩だ。
でもそれも先週までの話。
僕等のチームは市陸で負けてしまいました。
雨のせいで応援が足りなかったから?応援の質が低かったから?
相手が強かったから?相手のサポーターの声が大きかったから?
それだけじゃないでしょう。
僕の尊敬する元日本代表のFWが言っていた言葉がある。
「新潟に上手い選手は一人もいない。だから気持ちで負けたら勝てるわけが無いんだ。」
今思えば選手だけに向けた言葉じゃぁ無かったのかもしれない。
僕等のチームは今年、本命の1つとして昇格を狙っているが、
どこか黒崎が怒った時の挑戦者だった気持ちをなくしてしまってはいないだろうか?
結局サッカーなんてメンタルなスポーツだ。選手の中にも僕等の中にも「どーにかなるだろう」なんて思ってる奴がいたらイカンのだ。
市陸で起きた数々の奇跡は、僕等の気合が乗り移ったものだ。
それを今日も再現しようと思ったら、やっぱり頼れるのは自分の気合だけだ。
だから。
選手の後押しをしよう。
基本に立ち返って、大声で選手の背中を押そう。
苦しい時こそ、大きな声で、ゆっくりと。
ゴール裏ははしゃぐ場所でもなく、旗をふるだけの場所でもなく、酒を飲む場所でもなく、ましてや子供の遊び場でもない。
場所を取ることだけに気合を入れるなんて論外だ。
僕等のゴール裏は声を出す場所だ。
そして気合を見せる場所だ。選手を勇気付ける場所だ。
スタジアムの雰囲気、応援の雰囲気というものは個人個人の集合体が作る。
僕等一人一人の声が選手に通じれば奇跡は起こる。
そのために
声で選手の背中を押せる人間。そういう人達が集まるゴール裏を僕は作っていきたい。
日本一選手を勇気付ける場所を目指して。
さぁ、大声を出せる奴。選手の勇気あるプレーがわかる奴。
ゴール裏の真ん中に来い。
2007年11月12日 11時51分 村山 友康
PROFILE of 村山 友康(むらやま ともやす)
1967年生まれ。十日町市出身。神田先生が新潟に帰って来たということで、市陸で初観戦。元々浦佐の温泉旅館”てじまや”の主人とその周辺の人達が応援に出かけるために出していたバスを他人である村山が途中からバスジャックに成功。通称「魚沼バス」としてプロデュースし、アルビの観客動員に貢献している。ちょっと堅気には見えない顔をしているのが難点だが、魚沼周辺でアルビの友達を作りたい人は勇気を持って話しかけてみよう。(浜崎一さんより)