2007.08.07 第23回「プレイバック2001(5)」

 シーズン終了まで残り4試合となった11月3日の決戦は、朝から曇り空で、今にもひと雨来そうな雰囲気を醸し出していた。そして、この雨が、後に僕らの運命を大きく狂わせることになる。

 頼りの「アルビレックス新潟11年史」もここまでフォローしていないので間違っているかもしれないが、たしか勝ち点差5、野球でいうと1.5ゲームの差で、この日の直接対決を迎えたはずだ。両チームの勢い、勝負の流れからいって、この試合に勝てば、残り3試合で一気に「差して」、逆転昇格を果たす確信はあった。そんな首位京都を、ビッグスワンに迎えた大一番は、立錐の余地なしのフルハウス、42,011人の大観衆で埋まった。クラブもいきなことをする。夢の夢だった4万人超を果たしたこの日、末尾にピッチで戦う11人の選手を加えたのだ。GKは野澤。バックラインが4枚、神田先生に直樹、セルジオ、西ヶ谷。ダブルボランチが秋葉、マルキーニョ。サイドハーフに寺川、マサ(慎吾は出場停止)。そして、いつも通り黒崎、氏原が不動のツートップに入っていた。

 試合は、前回の対戦同様、激しい点の取り合いとなった。新潟が先制するも、京都が追い付く。しかし、55分、新潟が氏原のゴールでまた突き放す。残り時間、新潟は必死で守った。時計は、間もなくロスタイムを迎えようとしていた。このまま終われば、勝ち点差は2。4万人を超えることよりも、もっと夢物語だった昇格が頭にちらつきはじめた。

 どういう流れでボールがゴール前に来たのかはまったく思い出せない。しかし、当時京都のFWだった優作のシュートシーンは、今でも1枚の絵となって鮮明に目に焼き付いている。優作の放ったヘディングシュートは、確かに打点は高かったが、決して痛烈ではなかった。しかも、ラッキーなことにキーパーの真正面に飛んでいた。しかし、安堵の息を吐いた次の瞬間、ボールはコロコロと野澤の手を抜け、スローモーションのようにゴールに吸い込まれていた。野澤、痛恨のファンブル。気が付くと、後半の途中から降り出した雨は、本降りに変わっていた。

 目の前にあった勝利を逃した新潟に対抗する力は残っていなかった。確かに、たかが同点になっただけかもしれない。しかし、それを考えられないほど打ちひしがれ、また、それほどまでにチームもサポーターも経験が足りなかった。挫折も何も知らない甘っちょろい子供だった。延長前半、途中交代で出てきた金髪の韓国人選手にVゴールを決められた瞬間、残り3試合で勝ち点差は8となり、昇格は彼方に飛んでいった。試合後、呆然とするサポーターの前で、野澤は体を折り、泣いていた。2002年以降のファンには意外に思われるかもしれないが、2001年の野澤はよく泣いていた。今では、負け試合でも、どんな辛い場面でも常に笑顔でファンに接する野澤だが、原体験はここにあるのは間違いない。「あいつは本当のプロフェッショナルだ。尊敬する」去年で引退したある選手が、野澤を評して僕に語っていたが、彼を誤解している人も少なくないと思うので、ここに記しておく。

 さて、首位とは勝ち点差が8になったとはいえ、首の皮うんぬん、2位昇格はまだ可能性が残されていた。3日後の11月6日、一縷の望みを託し、はじめてビッグフラッグも持ち出して、平日ナイトゲームの山形へ大挙して向かった。こちらの試合内容はなぜかほとんど記憶に残っていない。ただ、負けたという事実が記されているだけだ。試合後、雨にぬれたビッグフラッグを絞り、それでもまだ来たときより倍の重さのビッグフラッグをみんなで駐車場に運んだ。

 山形まではマイカーで行ったが、帰りの道は長かった。2001年シーズンの昇格はここで完全に潰えた。初めて1シーズンの長さを体感した瞬間で、激動のこのシーズンをぼうっと振り返りながら運転していた。さすがにがっくりは来たが、新潟バイパスに乗った頃、遠くでなにか光明が差しこんだように見えた。

 オービスだった(涙)。泣きっ面に蜂とはまさにこの瞬間だったと思う。

 完全に昇格は消えたが、それでも、僕をはじめ、多くのサポーターが、4日後、消化試合を見に、遠路はるばる町田まで足を運んでいた。この試合は大事な試合だから見に行く、などという理由付けはとうになくなっていた。「そこに山があるから」という有名なセリフがあるが、「そこに試合があるから」見に行っていたにすぎない。大げさに言えば運命共同体。生まれたての醜いアヒルの子だった僕らサポーターも、1シーズンの激闘と、そしてちょっとばかりのしょっぱい経験を経て、いっぱしのサポーターになろうとしていた。

 この日もまた雨だった。試合は、黒崎の信じがたいロングシュートなどで2対1で逆転勝ちした。大雨の中、90分の声援を続けた我々に黒崎が試合後挨拶に来たが、まさか、その次の試合が、我々との別れになるなど、その時は知る由もなかった。そして、シーズン終了後、慎吾も京都に請われて新潟を去っていく。これまで、愛着のあった選手との別れは経験していたが、1年間、一緒に全国を駆け回った仲間との別離は初体験だった。

 ご存じの通り、J1昇格まではこれからさらに2年の月日を要した。その間、慎吾だけでなく、寺川もチームを去ったが、代わりに僕らを失意の底に沈めた優作がやってきて、J1昇格に導く決勝ゴールを決めた。また、スタジアムに何度も歓喜の歌をもたらしたマルクスの存在も忘れることはできない。サッカーは、クラブは生きているのだ。日々成長し、変化するのだ。思い付きで始めたこの連載企画だが、あまりにも記憶が鮮明で驚いた。2001年シーズンだけでなく、11年史の巻末の公式記録集を眺めていると、ほとんどの試合が映像とともに甦る。こうやって、クラブは人々の生活のなかに永遠に生きていくのだと思う。そして、僕にとって、そんな生活の元年が2001年にあるのは間違いない。

 最終節は13時キックオフ。毎試合やっていたテール・ゲート・パーティを実施するには、逆算して朝7時にスタートしなくてはならなかった。11月終わりの寒空のなか、寝起きの顔が朝7時に並んだ。寒さに震えながら、厚着をして、冷たいビールで乾杯した。みんな阿呆だった。試合は、寺川のVゴールで有終の美を飾ったが、この試合を最後に、井上公平、マルキーニョ、アンドラジーニャ、慎吾、黒崎が新潟を去った。2001年シーズンは、こうして終わりを告げた。

2007年8月7日 13時34分 

PROFILE of 浅妻 信(あさつま まこと)
1968年生まれ。新潟市出身。新潟高校卒業後、関西で長い学生時代を過ごす。アルビレックスとの出会いは99年のJ2リーグ開幕戦から。以来、サッカーの魅力にとりつかれ、現在に至る。2002年、サポーターのみでゼロから作り上げたサポーターズCD「FEEEVER!!」をプロデュースして話題に。現在もラジオのコメンテーターだけでなく、自ら代表を務める新潟県社会人リーグ所属ASジャミネイロの現役選手としてフィールドに立つなど多方面で活躍中。