2007.10.09 第32回「サッカークラブを作ろう(中)」

 実に2ヶ月ぶりとなる、ホームに響く勝利の凱歌。ラストワンプレーでの劇的なゴールに、皆さんの興奮も未だ冷めやらないであろうが、空気を読まずに、冷酷冷徹に前回の続きを書く。

 ジャミネイロは、門戸を広く開放したクラブである。クラブ創設時、重視したものの一つが「やる気」であった。片手間にやるのではなく、やるからにはジャミネイロに全身全霊を傾けよう。下手でもいいから真剣に、目標を持ってプレーできる奴だけ集めよう。そんな中に、当時44歳の湯浅清選手が入団を直訴したきた。サッカー未経験者。しかし、誰にも負けないやる気と、ほんのり前夜の深酒の香を漂わせるナイスミドルで、ダンディと呼ばれた。
 44歳の未経験者ダンディは、その言葉に嘘偽りなく頑張り、厳しい練習にもついてきた。塩沢で行われた真夏の合宿。さすがにフルメニューの参加は不可能で、一部のメニューについては、自らがグラウンド脇に建てた「ダンディハウス」と呼ばれるテント内で恍惚と過ごしていたが、その頑張りにはみんな一目置いていた。例えば、合宿初日、カンカン照りの午前練習を終え、国道沿いのレストランで昼食をとっていると、突如、バケツをひっくり返したかのような大嵐になった。慌てて練習場に駆けつけると、自慢のダンディハウスは見るも無惨に水没していたが、それでも午後から予定されていたフィジカルトレーニングが中止になったのはダンディのおかげであると感謝されたりした。また、夜の宴会では、若者が夜通しはしゃぐ中、1人晩酌を終えると、21時過ぎにおねむになり、別室でお休みになった。ところが、気が付くと、ダンディルームは布団を失った若者の避難場所となっており、翌朝、目を覚ました僕がダンディルームをのぞくと、折り重なって眠る若者のカオスの中で、1人、布団に入って眠るダンディの姿があった。その神々しい姿に後光が射していたのは言うまでもない。
 そんなわけで、サッカーは上手くなくても、抜群の人望があったダンディは、県リーグ4部の7人という交代枠を生かし、不動のスタメンを勝ち取った。ポジションはFW。ボールに触ったら、交代させようと思っていたが、なかなか触れられない。それどころか、よりによって味方の絶好のスルーパスに反応し、途中で人のボールをカットという荒技まで出る。それでも、前半10分ほどで、スタンドの拍手を浴びながら交代、自らも両手をあげてそれに応える姿は、「引退試合か」という突っ込みもなくはなかったが、サッカーの底辺の広さを感じさせる、誠に心温まる風景だったのだ。

 ジャミネイロはガチではあるが、基本はそんなクラブであるし、それはチームメイト全員の誇りでもある。ただ、社会人リーグを2年戦って、結果が出なかったのは事実であった。負けるのは悔しい。上手くなりたい。勝ちたい。そんなジャミネイロにとって、転機となるような出来事が、05シーズンオフに起こる。
 これでようやく前号の流れに戻ったわけだが、一つ目は期待させて申し訳ない、僕が、コーチライセンスを取得したことである。もちろん、資格を取っただけで突如世界が開けるほど甘くはないのだが、曲がりなりにも、これと平行してずっとジュニアの指導を続けていたことで、理論と実践が結びつき、頭の中で日を追うごとに明確に整理されてきた。
 ここで、あらためて、ジャミネイロのメンバーを見てみると、基本技術が絶対的に不足していることに気づいた。なんとなくなら皆上手い。しかし、理論に裏付けされた基本技術を正しく身につけている者は決して多くなく、そのためあるレベルでは通じても、競技のレベルでは全く太刀打ちできなかったのだ。筋力、スピードでは劣るものの、僕が教えているジュニアの子の方がよほど技術は高かった。また、判断もまずい。勝負をしてはいけないところでドリブルをつっかけ、簡単にボールを奪われていた。生意気を言うようだが、これでは新潟が勝てなかったわけだ、と思った。僕らのような、なんの変哲もない草サッカーレベルのチームのレベルが上がってこないと、新潟はいつまでもサッカー後進県から抜け出せないだろうと思ったし、逆に正しい技術を身につけた子供が大人になって、彼らが街中に溢れる頃、新潟の黄金時代が来るのだろうと思った。

 C級ライセンス取得もあり、06シーズンからは僕が監督を務めることになった。技術的には劣るが、年長者ということもあり、皆、僕の意見を取り入れ、好きなようにやらせてくれた。これまでやっていた練習メニューは、ジャミネイロにとってはまだ時期尚早でレベルが高すぎた。小学生にやらせているような基本メニューを、それこそ、蹴る、止めるのレベルからみんなで練習した。チームメイトの中には、サッカーの専門学校を卒業し、ジュニアユースを教えているメンバーもいたが、彼までが、いや、彼こそが、このような基礎メニューを嬉々として繰り返した。天才バッターイチローも、タイガー・ウッズも、未だに素振りを熱心に、飽くことなく何十分もやり続けるという。上手い選手こそ基礎を大事にするし、上達に王道はない。それを今さらながら感じていた。
 自分では気が付かなかったが、久しぶりにプレーをするかつてのエンジョイフットサル時代の仲間からは、技術の向上を指摘されることが多くなってきた。もちろん僕だけじゃない。黙々とトレーニングに励んだメンバーは、みな、確実に上手くなっていたのだ。

2007年10月9日 17時01分

PROFILE of 浅妻 信(あさつま まこと)
1968年生まれ。新潟市出身。新潟高校卒業後、関西で長い学生時代を過ごす。アルビレックスとの出会いは99年のJ2リーグ開幕戦から。以来、サッカーの魅力にとりつかれ、現在に至る。2002年、サポーターのみでゼロから作り上げたサポーターズCD「FEEEVER!!」をプロデュースして話題に。現在もラジオのコメンテーターだけでなく、自ら代表を務める新潟県社会人リーグ所属ASジャミネイロの現役選手としてフィールドに立つなど多方面で活躍中。