再び起きた震災から5日目の朝、私はようやく柏崎市に着いた。中越沖地震への災害派遣団の一員として、柏崎市西山町に来たのだった。
2004年10月の中越地震の際にも私は新潟市にいた。ひどい揺れに驚いたものの、それほど大きな被害もなかった。2005年4月に私は柏崎市に転勤することになった。私の赴任地は、落ちた渡り廊下も倒壊した書棚もすでに元通りになっていて、震災の傷跡は見えなくなりつつあった。そして、今年の春、わずか2年の勤務を終え、再び新潟市に戻ってきた。
地震直後すぐに柏崎市に連絡を取ろうとしたが、すでに携帯電話はつながらず、あちこちにメールを送ることしかできなかった。戻ってくる返信から、私が勤めていた場所は柏崎市のなかでも比較的被害は少なく、お世話になった方々は何とか無事であることを知った。それでも、じっとしていられず、災害派遣に参加することにした。
各種報道により情報は得ていたものの、実際に見た被災地はすさまじかった。高速道路はようやく開通していたが、所々陥没したり、隆起したりしている。倒れた家屋、傾いた家屋が目に飛び込んでくる。
避難所には150人をこえる人々がいた。断水のため、ポリタンクを手に地域の老人達がやってきた。私のできることと言ったら、水で満杯になった重いポリタンクを車まで運ぶことぐらいだった。
7月21日の夜。避難所となっている体育館の灯も消され、ようやく静けさが戻った頃、入口脇のテレビを数人の人たちが見ていた。音量は絞られ、実況も途切れ途切れに聞こえる。その脇で、若者ふたりは携帯電話をいじりながら、小声で話していた。
午後10時少し前だっただろうか。若者が「貴章だ」と声をあげ、テレビに見入ったのだ。延長後半で残りわずか。そばにいた大人たちも「やっと矢野か」と口々に言っていた。
ジャパンブルーに身を包んだ貴章がいて、それを見ていた若者たちも大人たちも笑顔になっていた。それからテレビの周りにいた人たちが応援し始めたのだ。ゴール前に放り込まれで貴章が飛び込むとちょっと抑え気味な、小さな歓声があがった。
私は何もできなかったが、貴章は確実にその場にいた被災地の人たちに元気を送っていた。
オレたちの新潟。
被災地の片隅にあるテレビを見ながら、地元にサッカーチームがあることの価値がまたひとつ分かったような気がした。これからアルビから代表選手が大勢輩出されることを願っている。でも、この日の背番号20番のユニフォーム姿へ送られた数人の声援は忘れないだろう。
2007年7月30日 17時37分 斎藤 純一
PROFILE of 斎藤 純一(さいとう じゅんいち)
1961年生まれ。新潟市出身。サッカーの経験のまったくないズブの素人。初観戦は、2001年8月11日の対大宮戦。それ以降ビックスワン通いが始まる。目標は、何があってもアルビレックスがタイトルを取る瞬間に居合わせること。題名の「矢野!新潟に力を」は震災後、アジアカップ中継放送に映った観客席に掲げられたボードから。