2007.08.13 そして明後日はもうホームのゲーム

 2004年10月23日夕刻。

 それは鹿島―浦和戦をテレビで見終わった時だった。これから出発したらまだ間に合うな、でも明日の夜は何時頃帰れるかな? などと翌日のアウェイ磐田戦の心配をしていた。その時、あ! と思った瞬間、今まで感じた事のない強い衝撃に襲われた。立っていられなくてキッチンのカウンターにつかまったきり動けなかった。

 爆弾でも落とされたんじゃないかと思うほどの光景。昔、自分がボールを蹴ったグラウンドはさながら盛期のオートキャンプ場。違うと思わせるのはそのなかに迷彩色の車や人がいるということ。仲間と必要なものはないかと連絡取り合っていた日々。1カ月後にホームゲームが再開されたFC東京戦のときでさえ、17号線の和南津トンネルを抜け川口に入ると、倒壊した自分の家の柱を燃やして暖をとっている人が大勢いた。

 正直、地震の次の日の磐田戦はテレビ付けながら片付けをしていたけれど、試合を見るどころではなかった。

 休日は落ちて壊れたものや割れた壁を片付けたり、直せるものは直したりするのが当たり前となり、アウェイガンバ戦のテレビを付けながら疲れた体で汗をかいていた。ちょっと癒されたりするかな? って期待もあった。でもそんな期待をしたこと自体、間違っていたのかなとも思う。ただ、やっぱりかなり悔しかったのも事実だ。

 選手だって、少しでも被災者の力になる為にってがんばっただろう、普段の負け以上に悔しかっただろう。負けが続いた為に、もっと自分の為に戦ってくれ的な声も出て来たけど、自分は正直そこまで割り切れなかった。確かに負け続ければ降格の可能性も少なからずあったわけだし、平常心で勝ちさえすれば結果的に力になる、そう言う意見も理解できないわけじゃなかった。別に勝ち試合を見たからと言って壊れた家が直るわけでもないし、あの日の夜の恐怖が消えるはずもない。昼夜かまわず襲って来る余震がおさまるわけでもない。

 それでもやっぱり、被災者の為にがんばるって選手の言葉は理屈抜きにしてうれしかった。

 そして一昨日。あのときと同じ万博のガンバ戦だったけど、今回も結果は残念なものであった。そして明後日はもうホームのゲーム。イヤなこと全部、このクソ暑さも、万博の敗戦も、丸ごとひっくるめて吹っ飛ばす、そんなゲームを今から期待している。

 最後になりますが、この度中越沖地震で被災されたみなさんに謹んで心からお見舞い申し上げます。

2007年8月13日 13時25分 村山 友康

PROFILE of 村山 友康(むらやま ともやす)
1967年生まれ。十日町市出身。神田先生が新潟に帰って来たということで、市陸で初観戦。元々浦佐の温泉旅館”てじまや”の主人とその周辺の人達が応援に出かけるために出していたバスを他人である村山が途中からバスジャックに成功。通称「魚沼バス」としてプロデュースし、アルビの観客動員に貢献している。ちょっと堅気には見えない顔をしているのが難点だが、魚沼周辺でアルビの友達を作りたい人は勇気を持って話しかけてみよう。(浜崎一さんより)