「バスはサポーターを乗せて、駆け巡る」
text by おーちゃん
UPDATE 2003/01/30
1998年、新潟市陸上競技場は、のどかだった。
天気の良い週末、ビールを買い込みお弁当を持って、ちょっとお気に入りのあの子を誘ってみる。
キックオフ間際(時にはキックオフ後)の市陸のゲートをくぐり、空いている適当な席に座る。
天気は文句なしの快晴でぽかぽか暖かく、スタンドに二人で並んで腰掛けてゆっくり話もできたし、戸外の空気を吸いながら飲むビールは美味しかったし、気が向けばサッカーの試合を見ることだってできた。
新潟市陸上競技場は、僕にとってのどかだった。
いつから一人でサッカーを観に行くようになったのだろう。
いつから俺達はタイコを担いでアウェイに行くようになったのだろう。
いつからバスはアルビレックスサポーターを乗せて日本全国を駆け巡ることになったのだろう。
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コラムというのは面白い。
見ず知らずの人間が、見ず知らずの人間の視点で語る史実(史実なのだろう、あくまでも)と感想を読んで、それに対しての感想を持つ。それは何かに密着したレポートとも違うし、後世に語り継ぐための歴史書でもない。そこで語られているのは想いの羅列であり、物事の善悪や価値の羅列である。あくまでとても個人的な。
このHPの管理人にお題を「バスツアー!」と簡潔に命令され、僕は何を書いたらいいのかひたすら悩んだ。
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2000年シーズン、仲間内が僕の家に集まって酒を飲みながらアルビレックスについて語っていた。今度のアウェイはどうしようかという話だ。
その頃は今のような新潟交通のような定期的なバスツアーは無く、僕たちは人数が集まらなければそれぞれ個人で、人数が集まれば大きなレンタカーを借りてアウェイに出かけていた。
たとえば8人が個人所有の普通車2台で出かけ、2台分の高速道路や燃料などの費用を払い、事故と伴う賠償などのリスクを考えれば、大きなレンタカー1台に保険をかけて交代で運転するのと金額的に大差が無くなるという考えからだ。
車をぶつけるまではいかなくても、ちょっと擦ったなんて時も安心。99年、00年のシーズンはそのようにしてアウェイに出かけていた。
当時、アウェイのゴール裏の人数が全部で1桁(それは3人であったり5人であったりもした)なのはさして珍しいことでもなく、そんなプチツアーで僕たちはあちこち出かけていても不自由は感じなかった。
しかしあるとき、人数が奇跡的な17人に達したときがある。これは快挙であったが、こうなるとレンタカーは3台必要で、空いてる席はまだ6人分はあったのだから、結果一人あたりの単価は高額になった。えらく高額になった。これはシミッタレな我々の財布を強く圧迫した。次なる手段を考えるときが来ているのだ。
紆余曲折を経て、たどり着いた結論は「個人チャーターの大型バスツアー」だった。
僕は仕事柄いろんな業種の人と知り合う機会があって、そこにうってつけの某バス会社の社長と知り合いになっていた。女の子に口利きをさせ、「沢山おまけしてあげてね」と言ってもらって、1年を通じてバスを出すという条件で、他社と比較すればかなり安価にバスを出してもらえることになった(後日談だが、このバス会社が繁忙期で、貸してもらえるバスが足りなくなったとき、他社にあちこち電話してこの値段を告げると、そこまで安くはできないが近い金額までバス料金を落とすと言ってもらえることも多々あった。ありがたい話だ)。
記念すべき我等がバスツアーのスタートは01シーズン5月のアウェイ仙台戦。
それを皮切りに僕たちのバスは本州ならばどこでも駆けつけるバスツアーとなる。
しかし最初の3回のバスツアーは、人数が集まらなくて強烈な赤字を累積していった。素人がやる値段設定の考えは稚拙であった。集まった人数で経費を割れば良かったのだが、最初に値段が「一人いくら」と出ていないと、申し込む人はまずいない。45人乗るバスに25人と45人乗車では値段は倍近く違ってしまうからだ。
結局、大人数が乗ることを前提としての値段設定は破綻する。これ以上の赤字は個人で負担するには多すぎる金額となってしまうから。
もう限界だと思ってしまった。
ここから、周りの人が強烈な支援を始めてくれる。
まず、仕事上のお客様として知り合っていた複数の新聞のアルビレックス担当記者の方々が、そういうことなら応援するよと、決して小さくないスペースを割いてバスツアー募集の告知を「毎回無料で」掲載してくれた。これは大きかった。
掲載した電話番号は僕の職場だったのだが、仕事にならないほど問い合わせの電話が舞い込んだ。
バス内でお金を集金するときに、「毎回こんな金額じゃ絶対に赤字のはずだから」
と言って、お釣りはいらないとか、これは気持ちですとか言ってお金を余分にくれようとする人も沢山いた。これらは丁重にお断りしたが、この気持ちは本当にありがたかった。しかし映画のチケットやビールはありがたく頂戴した。
そして競技場でのビラ配り。試合前、試合後、みんながポケットマネーを出し合って刷ったコピーチラシ、印刷業に従事する方が好意で刷ってくれたチラシ(それは毎回1千枚にもなった)を手分けして配る。
アルビレックスフロントは、そんな個人のバスツアーのビラを配る許可を与えてくれ、当然ながら必要となる、アウェイ会場のバスの駐車場の手配を請け負ってくれる。
仲間内が自らのHP群でバスツアーの募集や感想を載せてくれる。
01シーズン当時、ビッグスワンの完成後に飛躍的にホーム観客動員を伸ばす新潟だったが、アウェイに出かける人数は全く伸びを見せていなかった。
しかし、ここから新潟は変わってゆくのだ。
バスの台数は増え、平日も複数台がアウェイの地に出撃していく。
1泊のバスツアーも何度かやって、夜はみんなで酒を呑む。
次の日はみんな土色の顔をして新潟への帰途につく。
日帰りのバスツアー、帰りは大量の汗を流したサポーターが放つ宿命的な男子高の運動部室のにおいを落とすべく、スーパー銭湯に立ち寄る。
ネットで銭湯の存在を調べ、大型バス駐車場の有無を確かめ、そこに行くまでの道が大型バスが通行可能かどうか調べる。
2度目のアウェイ仙台戦にはバスが4台になる。
しかしすべてバラバラの会社のバラバラの塗装のバス。
でも気持ちは誇らしかった。
アウェイはオレンジに染まってきた。燻っているものが爆発する前触れだった。
残念ながら昇格を逃したこのシーズンの終了後、新潟交通の方とフロントの方が僕の元を尋ねてくる。
「来年から当社でバスを運行したいのですが」と。
素人バスの運行ももう飽和状態になってきた。いくら保険を掛けたといっても、事故の際の賠償を考えれば、定期的にバスを運行させ続けるのも個人として限界である。それが複数台ならば、危険の確立も倍増していくのだ。
ほかのチームには無い、「サポーターが独自に運行するバスツアー」を無くすのも一抹の寂しさを覚えたが、バスツアーは短期間にここまでたどり着いた。
毎試合バスを出すこと、金額は今より低めに抑えることを約束してくれ、僕たちのバスは一時お休みをする。
02シーズンはプロのバスツアーになった。
ばっちり揃ったバスが、10台を超える台数を連ねて高速道路を走り抜ける。
一緒の気持ちを持った者たちが、10台を超える台数を連ねて高速道路を走り抜ける。
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バスツアーの思い出を語ろう。
高速道路のSAのトイレ休憩の際のことだ。
強烈な行列を作る女子トイレの列の後尾の方に、このページの管理人がいる。
男子トイレは全く空いていて、僕は用を済ませて男子トイレから出てきた。するとこのページの管理人(もちろん女性、乙女である)は僕の手をはしっと掴むと、「一緒に来て!」と男子トイレに連れこんだ。列に我慢ができなかったのか男子トイレの構造に興味があったのかは分からない。彼女はトイレの中に入ると驚く男性陣をなぎ倒し、個室へとアグレッシヴに走っていった。後に残された僕は仕方なく微笑んでみたりした。
僕は声を大にして言いたいのだけれど、こういった軽犯罪の片棒を僕に担がせるのはとても困るのだ。
またトイレネタで恐縮だがもう一つ。
バスは東京環八の大渋滞にはまり、190氏、ペロ氏、僕の3人はとても激しい尿意に悶絶していた。バスの運転手に「信号で止めてくれ」とお願いし、バスが停車して扉が開くと僕たち3人は文字通りバスから飛び降りた。
他人様の庭に侵入し、190氏は通りから死角になる角の壁に向かってコトをはじめた。ペロ氏と僕は、彼をぐるりと取り囲むように大きく円を描きながらコトをはじめた。結構太く大きく囲んだつもりだったのだが、190氏は用が終わるとものすごい顔をして立ち幅跳びをし、ひらりとそれを飛び越えた。人間の必死さは不可能を可能にするとその時目の当たりにした。
1泊でとまる場合、総じてホテルはその都市で一番安価なものを選ぶことを常としていた。どうせ酔って帰って寝るだけだ。現地では関東組と待ち合わせ、しこたま呑むのがお約束である。
今までで一番低い所にランクされるホテルは天皇杯4回戦、G大阪戦へと向かった鳥取市のホテルだ。ロビーというよりは広めの廊下を備えたそのホテルの部屋は、未だ見ぬ留置場を連想させるホテルだった。廊下を歩く人の足音や、隣の部屋のトイレを流す音まで聞こえ、テレビはスイッチを入れてから画像がその線を結ぶまでに余裕で1分はかかった。シャワーの温度の調節は困難を極めた。熱湯もしくは水しかでないある種デジタルなシャワーだった。水の栓を触れるか触れないかで温度ががらりと変わる。
ここでは夜にSC鳥取のサポーターと呑んだのだが、いろいろと興味深い話ができて良かった。居酒屋のトイレの前に女の子が落ちていた。とてもかわいらしい子だった。こういうことは良くあるのかと聞いたらまぁ少なくはないという返事だった。
連れのジェロニモアイ(女性)さんは店員に大量のビールをかけられてその日一日臭かった。
圧巻は02シーズンの最終アウェイ、C大阪戦(長居スタジアム)だった。
僕たちは1泊で行く予定を立て、ビッグフラッグを積み込むため、新潟交通とは別に2台の小型バスをチャーターした。1台は新潟、三条燕、柏崎、上越を回り、もう1台はアルビレックス事務所で保管されていたビッグフラッグを積んで、また途中で2台は合流し、長居へと向かった。
僕が乗っていた各停車場を回るバスが三条燕ICに着いたときだ。まだ真っ暗な早朝にもかかわらず、そのICにはオレンジの波が出来ていた。まだ新潟交通バスが到着してなかったのだ。バスがICを一旦出て旋回するときに、ヘッドライトに照らされたその波の凄さは筆舌に尽くしがたい。そこで僕たちは横断幕と太鼓と仲間6人を乗せて次に向かう。そこにはある種のオーラがあった。そう考えると新潟交通バスセンターの人の波も物凄かったのだろう。意地でも勝って最終戦に望みをつなげようとうねる新潟のその波は、巨大な生き物のように見えた。
長居でみんなが合流するのが楽しみで仕方なかった。
その他、ここでは語れないいろんなことがあった。
勝っては泣き、負けては泣いた。
01シーズンのアルビレックスは、かつて無いほど昇格を望む空気が高まってきた始まりの年だったし、想像を絶する負け試合もあれば、それだけでしばらくは幸せな気分に浸れる勝ち試合もあった。記憶に残るゲーム、記憶に残るゴールや、驚愕のシュートもあった。
そして仲間とは羽目をはずしながら、そしてしんみりして慰めあったりしながら、いろんなことをやってみた。
これからまたシーズンが始まる。
今年も我々は昇格候補としてシーズンを迎える。
仲間たち(これには選手ももちろん含まれる)と、今年こそ昇格を祝いあいたい。
まだ見ぬJ1の扉を押し開ける、ほんの少しの手助けをしたい。
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「ずっと、そばに、いるよ」
これは主に99年まで新潟ゴール裏に張られていた横断幕の文句だ。
それはサポーターとして出来る限りのことをしようという気持ちの発露だ。
僕はこれを見て、あの時深く頷いた。
サポーター一人一人が、自分の出来得ることを「全部」やる。
俺達は俺たちが出来ることは全部やる。
それは声を出すことであり、声をかけることであり、素晴らしいプレーに拍手することであり、行けずに泣く泣くテレビで観戦することであり、仕事中にこっそり速報をネットでチェックすることであり....いろんなこと。
昔言われたことがある。
「サッカーのサポーターって、バンドの追っかけと何が違うの?
なんでファンじゃなくてサポーターって言うの?追っかけの彼女たちだって、日本全国バンドに付いて回ってるよ。」
サポーター。難しく考えることは無い。ファンと区別する必要なんて何も無い。
自分は何がサポートできるか。これだけだ。
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最後に管理人の心温まるエピソードを。
新潟ゴール裏に、上半身裸になる通称「裸族」が出没し始めたときのことだ。
管理人は僕を捕まえ、「私も裸族になりたいんだけど、肌色のババシャツを着れば裸族に見えるかな?」と質問した。
僕の頭の中を小さな生物群がしずしずと横切っていった。
この人はいったい何を考えているのだろう。
そんな管理人、ガンバレ。