2007.09.11 第28回「頑張るという言葉の免罪符」

 日曜の夜はよく眠った。動物奇想天外!でさなかクンが、子供達と一緒に三宅島の海に潜っている途中で失礼をして布団に入ったので、10時間近くは寝たんじゃないだろうか。この日は社会人リーグ(ジャミネイロ)の公式戦があったため、さすがに疲れていたのだろう。もっとも、そう書くと、あたかも日中、獅子奮迅の活躍をしたかのようであるが、出場時間はわずか4分弱(苦笑)。この日、ほぼベストメンバーが揃ったジャミネイロに僕のプレーするスペース(ポジション)はなく、大差がついた終了間際に、浅妻監督の指示に従って出場し、わずか数タッチのプレーを見せただけであった。

 そんなわけで、試合には快勝したが、僕の心は晴れなかった。先発出場していての残り4分と、途中出場の4分では、時計の動く時間は実際一緒だったとしても、体感的には絶対受け入れられない時間の観念である。自分が経験して初めて分かったが、試合終了間際に出場する選手の物足りなさは想像以上といってよい。ピッチに入って、ようやく(気分が)ゲームに入ってきたと思ったらもう終了。まして、数少ないプレー機会でミスしようものなら、一気にブルーである。というわけで、今回、僕のパスミスがサイドラインを割った直後に試合終了の笛を吹いた井筒監督(似の主審)は、僕の逆恨みの対象になってしまったわけだが、バリバリのアマチュアの僕でもそう思うわけだから、プロ選手が、毎試合これを強いられるときついんだろうな、と思ってしまった。移籍志願発言も出てくるわけだ。良く言われるように、選手にとって一番の良い監督は自分を使ってくれる監督。つまり、たかが1選手がタブーを冒すわけだが、僕にとって浅妻監督は良い監督ではなかったと、ここで勇気を持って発言したい。

 プレーヤーとしては単純にそういう怒りの感情をぶつければよいが、監督「浅妻」としてはそうはいかない。しばし、議論の対象となるように、選手の交代というのは、監督にとって一番難しいものだと思う。
 ここでも時間の観念が問題になる。第三者として試合を見ていているときと、監督として交代を司っているときの時計の進み方はかなり違う。責任の有無で片づければ簡単だろうが、それでは説明しようがないほど時間が経つのが早く、迷っているとあっという間に残り10分ということがしばしである。特に、先発メンバーと控えで、力の差が大きいことが多いアマチュアレベルになると、交代のカードを切るのはかなり勇気がいる。前回の千葉戦で、容赦なく巻、水野を交代させたアマルの偉大さ、身内の話で言えば、J2時代、前半でマルクスを交代させた反町監督の決断にしびれる所以だ。

 そんな中で、僕のようなド素人監督でも、比較的容赦なくカードを切りやすいのは、怪我や疲労などによって、運動量、パフォーマンスの低下が見られたときである。同じ戦術的交代といえども、選手を交代させることによって、積極的に局面打開を図ろうとするものではなく、このままではまずいから対応しなくては、という消極的な交代ともいえようか。誰にでも分かりやすいという点で説得力を持つが、監督の英知が見られないという点で誠に物足りない。つまり、ここでも、サポーターによって、浅妻監督は良い監督ではないと吊し上げられるところである。おいおい、四面楚歌じゃないか。

 もっとも、多くの人が浅妻監督を批判できるか、と言えば、それは別だろう。日本人は頑張る選手が好きだが、裏を返せば、それが一番分かりやすい評価基準からだ。自分の極限近くまで走り、体を張ってプレーする。また、精神的な側面からも、頑張るという言葉からは免罪符的な香りが漂う。僕らは、子供の頃から頑張れ、頑張れと声をかけられてきた。とりあえず困ったら使っとけ、みたいな感じで安売りされてきた言葉の一つといっても良い。頑張れば全てが許される、とまでは言わないが、少なくとも頑張っている者に罵声を浴びせることが出来るのは真性のサディストぐらいだろう。こうして、頑張る者が贖罪を得るのに対し、頑張らない者、少なくとも評者の目にそう映らない者は、しばし、敗戦のスケープゴートにされる。
「今日の試合は気持ちが見られなかった」「○○だけだよ、頑張っていたのは」
皆さんも、知らず知らずのうちに、効果的なプレーをしたか、プレーに意図はあったかではなく、精神的なものに評価の比重を置いていないだろうか。乱暴ないい方をすれば、プレーが読めない代わりとして、根性の有無に救いを求めていないだろうか。

 ジュニアの試合を見ていても、それは強く感じることだ。ジュニアの世界こそ、理論と現実の乖離が激しく、むしろ、口で立派なことを言っている人に限って、それとは正反対のサッカーが繰り広げられていることが多いような気がする。少し前のコラムでも書いたが、仮に意図を持って前線に残っていたり、ボールホルダーとの距離を保っている場合でも、「走れ、追え」でベンチから尻を叩かれまくっていては、やがて、頑張る姿を見せていれば許されるという免罪符を求めて、アリバイ的なチェイシングを行い、彼らが元々持っていた創造性や、自分の考えに基づく判断力を失うのではないかと危惧してしまう。もっとも、手を抜かない、走る、全力でプレーするということはサッカーの基本中の基本であり、その辺の見極めこそが、指導者の能力といえば、それまでなのだが。

 日本人が頑張る民族であるということにあまり異論はないだろう。それに誇りを持っているのは僕も同様で、クライフのように、「ボールを追って汗をかくのは愚か者のすることだ。ボールを走らせろ。なぜなら、ボールは決して汗をかかない」と言うのはとても勇気がいることだ。ただ、全員で頑張るのが日本のサッカーの美徳であるのは認めるところだが、これで世界に通じるかといえば、それはまた別の話であろう。全盛期のジャンボ鶴田のような、善戦マンに終始する日本代表の試合を見ていると、頑張れ、頑張れの精神至上主義では限界があるような気がする。

 ところで、僕は、これを書いていて、かつて天才と呼ばれたある懐かしい選手を思い出してしまった。J2時代、対戦したことのあるゾノこと、前園真聖。当時、センターサークルから決して動こうとしない彼の運動量に笑っていたが、彼にとって日本という国はあまり相性が良くなかっただけの話かもしれない。

2007年9月11日 18時27分

PROFILE of 浅妻 信(あさつま まこと)
1968年生まれ。新潟市出身。新潟高校卒業後、関西で長い学生時代を過ごす。アルビレックスとの出会いは99年のJ2リーグ開幕戦から。以来、サッカーの魅力にとりつかれ、現在に至る。2002年、サポーターのみでゼロから作り上げたサポーターズCD「FEEEVER!!」をプロデュースして話題に。現在もラジオのコメンテーターだけでなく、自ら代表を務める新潟県社会人リーグ所属ASジャミネイロの現役選手としてフィールドに立つなど多方面で活躍中。