【コラム】彼女が最後まで愛した場所、ビッグスワン

モバアルのえのきどさんのコラム(アルビレックス散歩道・第91回/PCサイトでは本日5/19更新予定)で知った方も多いと思いますが、アルビレックス新潟と関係の深かったエイヤードの小早川史子さんが亡くなりました。
アルビレックス新潟の、そしてサポーターの歴史に多大なる影響と存在を残した彼女のことを、これからも忘れないでいることが私たちにできる唯一のことだと思い、親交のあった方にコラムを依頼しました。
ぜひお読みください。

 

彼女が最後まで愛した場所、ビッグスワン

 
 既にモバアルのえのきどさんのコラム(アルビレックス散歩道)で触れられているように、エイヤードの小早川さんが亡くなってしまった。このコラム掲載後、少なくない新潟サポーターの方から、僕のもとへ、新潟のサポーターとして彼女に感謝と哀悼の意を伝えるべく何かできないだろうか、という問い合わせをいただいた。その数、その幅の広さに改めてというか、いや、失礼ながら想像以上の反響に、いかに彼女が新潟のサポーターに愛されていたか、新潟に溶け込んでいたかを知り、一層悲しみが、喪失感が膨らんだ。

 僕が小早川さん、丸山さんのユニット「エイヤード」と初めて会ったのは、2003年の2月であったと思う。その前年にFEEEVER!!というサポーターズCDを制作し、その際、色々な音楽事務所とコンタクトを取ったのだが、そこで、「何か面白いことを探していた」彼女たちのアンテナに引っかかったようである。誰もが知る超モンスタープロダクション出身、直前まで2年連続でdirector of the yearにも輝いていた丸山さんは大のサッカー好きで、それに関する仕事がしたく、エイヤ!の思いで「ビッグクラブ」を辞め、立ち上げたのがエイヤードであった。小早川さんは、丸山さんの、レコード会社所属時代の先輩。当然スポーツ、それもサッカー好き。初めて会ったお二人は、そのプロフィールからも想像されるように洗練され、スマートだった。その醸し出すオーラに、初めて会ったときに一緒にいたジャミはすっかり恐れおののいていたが、気さくなお二人は我々を快く受け入れてくれ、特に同年代である僕とは、話があったこともあり、プライベートでも親しくお付き合いをさせていただくようになった。

 小早川さんは、奇麗で、上品で、お嬢様然とした外観であったが、その実はユニークな経歴を持つ、面白い人だった。3人でいるときは、格好のいじられ役となり、神宮球場のマスコットガールであったことや、エイヤードの近くにあった怪しい中華料理の店をネタにするのが定番で、おかげで常に笑いが絶えなかった。新潟を離れ、エイヤードの一員として一緒に仕事をしたらどんなに楽しいか、と思ったこともなかったわけではない。それほど、僕にとっても大好きな、それ以上に尊敬し、憧れる人だった。

 小早川さんが、新潟に何を残したかについては、僕がお手伝いさせていただいたことを辿れば少しは理解していただけるかもしれない。2003年のLocalismから急激にクオリティはあがったが、その影に、小早川さん、丸山さんの持つ幅広い音楽業界のネットワークがあったのは言うまでもない。特に小早川さんじゃなくては出来なかった使用許諾を巡る交渉がいくつもあり、収録OKの報を受けたときは、電話を握りながら快哉の叫びをあげたものだ。また、PENPALSのスタジアムライブにおけるあの盛り上がりは、当時の新潟の勢いそのままであったし、その新潟のムーブメントを記録に残したいということで奔走、出版にこぎつけたのが、ニイガタ現象であった。そのほか、アルビレックス新潟とMSNとの連携も記憶に新しい。
 それらをそばにいて見続けていた僕だから説得力があるものと思って欲しいが、お二人とも、本当に損得勘定抜きで、新潟のために尽くしてくれた。それまで新潟に関わりのなかった人がどうしてこれまでに? という思いもあり、それを聞いてみたことがあったような気もする。その時は、これ(新潟)がエイヤードの最初の仕事で思い入れがあるからですよとのことであったが、とてもそれでは説明できないほどの献身ぶりで、本当に頭が下がる思いだった。新潟県人以上にアルビレックスを愛し、溢れんばかりの情熱を捧げ、そして、それが本物であるとサポーターも知っているからこそ、お二人をサポーターも愛したのだと思う。

 小早川さんが体調をちょっと崩しているのは、丸山さんとの何気ない会話の中で知った。あまりにもサラっというものだから、きっとそんなに楽観は出来ないのだろうけど、状況を見つめていて欲しいという意味だと解し、僕もそれで会話を止めた。実際、一度退院して顔を合わせたとき、まるで変わっていなかったものだから、杞憂だったのだと自分を諫めた。
 しかし、それからしばらく経って、再び入院したとの噂を耳にし、心配はしていたが、そのまま日常の忙しさにかまけていたら、この訃報が突然に飛び込んできた。あれだけお世話になったのに、お二人が苦しんでいるときに何もしてあげることが出来なかった。自分の不甲斐なさと、非礼を、無力を罵った。小早川さんに会い、普段通りの会話をしたのが去年の夏前だったと思う。結局、それが僕と小早川さんの最後の思い出になってしまった。

 小早川さんが亡くなって、程なくして丸山さんから丁重な手紙が届いた。そこには、短い文面ながらも、生前の小早川さんの様子が生き生きと描かれていた。目を閉じれば、どのシーンでも僕の思い出の中で元気な小早川さんが動き、優しく微笑んでいる。
 「今週、ビッグスワン行く?」、「亜土夢出るかなぁ。出て欲しいなぁ」

 丸山さんからの手紙の最後に、こうお願いがしたためられていた。丸山さんに代わり、僕からもお願いしたいので、そのまま転載させていただく。

 お願いです。どうかあの笑顔を思い浮かべながら、空へお祈りください。
 全員のお祈りが届きますように。大切な小早川さんに届きますように。

 皆さんも、ぜひ、ビッグスワンでのキックオフ前にお祈りください。そこは最後まで小早川さんが愛した場所なのです。

(2011年5月18日 浅妻 信)

PROFILE of 浅妻 信(あさつま まこと)
1968年生まれ。新潟市出身。北信越2部リーグ・ASジャミネイロ監督。ジャミネイロサポーターを前に「今日の敗戦の原因はサポーター」と言ってのけても怒りを買わずに笑いを誘える愛されキャラ。当サイトにアーカイヴされているmsnコラムをはじめスポーツナビにごく稀に出没するなどコラムニストとしても活躍。現在、月刊にいがたタウン情報にもう随分長いことコラムを連載中。

 

また、小早川さんは2007年のmsnサポーターズコラムに寄稿されています。
当サイトのアーカイヴに掲載しておりますので、合わせてご紹介します。

 ・2007.09.24 アルビの格付け
 ・2007.08.27 いけいけ! 甲子園。
 ・2007.04.23 11月3日、国立競技場でオレオを食らう